■光秀は若狭に 同年4月30日深夜、京都に戻った信長は、明智光秀と丹羽長秀を若狭に遣わし、若狭武田氏の家臣・武藤友益の母親を人質を取った。人質を取るということは、同盟関係を結んだ証でもある。当時、若狭武田氏は、家中の動揺で危機に瀕していた。 2人は大飯郡の武藤氏の城を破却すると、5月6日に現在の福井県小浜市から滋賀県高島市を経由(針畑越え)して京都に戻った。城を破却したのは、武藤氏が恭順の意を示した証拠でもある。城は軍事施設であり、権力の象徴でもあった。

情報源: 【「麒麟がくる」コラム】いよいよ立ち上がった朝倉義景!織田信長はいかに対処したのか?(渡邊大門) – 個人 – Yahoo!ニュース