2026年5月1日付の読売新聞オンライン「歴史探訪」では、滋賀県高島市勝野の大溝城跡が取り上げられ、古代北陸道の水陸交通と戦国期の在地支配、織田信長政権下での水城築城、そして現代の保存・観光までが紹介されました。4月下旬の取材で本丸跡の石垣などが確認された、とされています。現地の案内に携わる宮崎雅充さん(50)の説明として、信長が高島の立地を改めて重視したのではないか、出土瓦は安土城と同系統で信長側の技術支援があったのではないか、といった見方も掲載されています([読売新聞オンライン](https://www.yomiuri.co.jp/local/shiga/news/20260501-GYTNT00152/))。

以下では、同記事を手掛かりにしつつ、高島市や滋賀県の公開資料、観光・文化財系の解説で重ね合わせられる範囲の歴史を整理します。地名や城主の系譜は読み間違いが起きやすいので、本文中のリンク先の表記もあわせて参照してください。

読売新聞オンライン「歴史探訪」記事のOGP画像。大溝城跡周辺の取材を伝える報道ビジュアル。
読売新聞オンライン「歴史探訪」より(2026年5月1日公開記事) [報道機関の公開記事に基づく引用] 出典:[読売新聞オンライン](https://www.yomiuri.co.jp/local/shiga/news/20260501-GYTNT00152/) ※著作権は原権利者に帰属。二次利用は各規約に従ってください。

大溝の立地と「水陸の要衝」

大溝は、京都から若狭・越前へ抜ける古代北陸道と琵琶湖水運が交わる地点の一つとして知られています。国道161号沿いの現代の交通動線にも重なり、歴史の地図を頭に置いたうえで現地を歩くと、なぜ城と陣屋の舞台が重なったかがイメージしやすいでしょう。湖西線の駅からバスや自転車を組み合わせるルートも取りやすく、日帰りで史料館と城跡、陣屋総門を一列に巡る計画も立てられます。

高島市観光ガイドでは、大溝城跡の本丸石垣や乙女ヶ池をはじめとする水辺の遺構が紹介されています。琵琶湖西岸の内湖を外堀のように組み込む発想は、物流と防衛を同じ地形でまかなう近世城郭の特徴とも重なります([高島市観光ガイド・大溝城跡](https://takashima-kanko.jp/spot/2018/06/post_107.html))。

高島七頭という在地の枠組み

戦国期、近江国高島郡では「高島七頭」と呼ばれる在地の武士団が知られます。滋賀県の公開資料では、佐々木氏一族の庶流が分立した七つの家系として整理され、高島氏(越中家)、朽木氏、田中氏、横山氏、永田氏、平井氏(能登家)、山崎氏が挙げられる、という説明が読み取れます([滋賀県「近江における佐々木一族/高島七頭とその城郭」](https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/2042290.pdf))。

室町期から戦国期にかけて、在地の関所運営や交通利権をめぐる調整が続いたとされ、大きな大名の進退と相まって勢力図は何度も塗り替えられました。1570年の金ヶ崎の戦いの際、朽木氏の当主朽木元綱が織田信長の撤退路を確保した、という記録は、近世史の入門書でも繰り返し紹介されるエピソードです。

高島郡内には、七頭の活動を背景にした山城・城館跡が点在します。観光協会の資料では、清水山城館跡などが戦国期の遺構として案内されています。城郭史を深く読むほど、単独の居城ではなく、湖岸の道と舟路を結ぶネットワークの一部として捉える視点が重要になります。

織田政権と大溝城(天正6年/1578年)

天正6年(1578年)、大溝城は織田信長の甥にあたる織田信澄(津田信澄)によって築かれたと広く伝えられています。縄張に明智光秀が関わったとする伝承も、琵琶湖周辺の城郭解説や観光資料でしばしば触れられます。出土品の瓦が安土城系のものと比較される、といった具体的な話は、今回の読売記事でもガイドの説明として紹介されています。

信長が琵琶湖の水運を押さえるために湖岸に城郭網を敷いた、という大枠の説明は、大津・長浜などと並べて語られることが多い論点です。史実の細部は研究が進むたびに修正され得るため、数値で縄張全体を断定するより、現地の発掘成果や市の資料館展示を追うのが確実です。1960年代以降の発掘で本丸周辺の石垣基部が確認され、2010年代の調査では船着き場に関わる遺構の検出が報じられるなど、現場の知見は更新され続けています。

高島市観光ガイドが掲載する大溝城跡の石垣・郭周辺の写真。本丸付近の野面積み石垣と緑地が写る。
大溝城跡の石垣(高島市観光ガイド) [公式公開情報] 出典:[高島市観光ガイド(高島市観光協会)](https://takashima-kanko.jp/spot/2018/06/post_107.html) ※著作権は原権利者に帰属。二次利用は各規約に従ってください。

本能寺の変以降から廃城、陣屋へ

天正10年(1582年)の本能寺の変の後、信澄は光秀の娘婿でもあったことが禍根となり、大坂で自害に追い込まれたとされています。その後の城主交代や改易の経緯は複雑で、ここでは個別の年次をすべて列挙しません。文禄期に大溝城が廃城となり、石材などが水口岡山城へ移されたとする説も、甲賀市の研究資料などで議論されています。

元和5年(1619年)、分部光信が大溝藩(約2万石)の初代藩主として入封し、旧城郭地に陣屋を整えた、という整理が一般的です(例:[大溝藩の項目(コトバンク)](https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%BA%9D%E8%97%A9-39584))。江戸期には武家地と町人地、水路を生かした上水道の痕跡などが重なり、現在の町並みにも名残が読み取れます。

重要文化的景観と日本遺産、総門の復元

「大溝の水辺景観」は2015年1月、国の重要文化的景観に選定されました(例:[高島市の重要文化的景観の紹介](https://takashima-bunkaisan.jp/bunkaisan/keikan.php))。文化庁の日本遺産ポータルでも、琵琶湖と結ぶ水辺の文化的景観として位置づけられています([日本遺産ポータル「大溝の水辺景観」](https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/culturalproperties/result/122/))。

2024年4月には、大溝陣屋の総門が復元・公開され、市の文化財ページや観光協会の特集でも案内が整備されています([高島市「大溝陣屋 総門」](https://www.city.takashima.lg.jp/soshiki/bunkasports/bunkazaika/3/1/10978.html)、[高島市観光ガイドの紹介記事](https://takashima-kanko.jp/spot/2024/04/post_327.html))。

高島市観光ガイドが掲載する、復元された大溝陣屋総門の外観写真。
大溝陣屋総門(高島市観光ガイド) [公式公開情報] 出典:[高島市観光ガイド(高島市観光協会)](https://takashima-kanko.jp/spot/2024/04/post_327.html) ※著作権は原権利者に帰属。二次利用は各規約に従ってください。

散策と学びの拠点

市のPDF「歴史散步」シリーズや、たかしま歴史民俗資料館の展示は、城から陣屋、近代以降のまちづくりまでを一気通貫で押さえるのに向いています(例:[市公式PDF「歴史散步」](https://www.city.takashima.lg.jp/material/files/group/75/story3-03.pdf))。読売の記事が改めて示したのは、紙面と現地を往復させると、石垣一つにも「交通」と「権力」の両方が刻まれている、という読み方が立つ、という点でしょう。

乙女ヶ池のような内湖は、景観として親しみやすい一方、水位や護岸工事の影響で見え方が変わります。写真の季節や撮影位置によって「水城らしさ」の印象も変わるため、複数回足を運ぶ価値があります。駐車場や歩道の整備状況は随時更新されるので、出発前に市や観光協会の案内を一度確認すると安心です。春の桜、夏の新緑、秋の芒、冬の静けさと、同じ石垣でも表情が変わります。

史実と伝承の線引き

城郭史では、縄張の意匠を特定の人物に帰する伝承が残りやすい一方、考古学の成果で手堅くなる部分と、依然として議論が続く部分が同居します。今回のテーマでも、瓦の産地や文様の比較は材料が増えている一方、当時の政治判断の動機までを一言で決めつけるのは難しい、というのが素直な整理です。興味が続く読者には、市の発掘報告や学術誌の論文をたどる道もあります。観光パンフと論文のどちらを先に読んでも構いませんが、写真の美しさだけで年代や事件を短絡的に結びつけないよう、出典の年代を一度確かめる癖を付けると、のちの学びが楽になります。