03.08
世界中のあいまいな地図が花瓶に宿る キュンチョメ個展「100万年の子守唄」高島市で展開

世界中の人々が描いた曖昧な世界地図を基に制作された地球儀状のガラス花瓶に一輪の花を挿した新作が、琵琶湖西岸・高島市大溝地域の旧民家で展示されている。2026年2月21日から4月19日まで金土日(および2月23日祝日)のみ開場するキュンチョメ個展「100万年の子守唄」は、滋賀県立美術館が主催する「ASK01」プロジェクトの第1弾。琵琶湖という古代湖の悠久の時間を「子守唄」に喩え、水と生命のつながり、そして人間中心主義を超えた「新しい愛のかたち」を問いかける。記事では展覧会の背景、作家の軌跡、新作の制作過程、古民家空間での体験、プロジェクトの意義を多角的に検証し、中長期的な社会影響までを考察する。
琵琶湖の水辺に響く「100万年の子守唄」展覧会の誕生背景
大溝地域の歴史的・文化的文脈と水の文化 高島市大溝地域は琵琶湖西岸に位置し、戦国時代に織田信澄が築いた城下町の面影を残す港町である。比良山地からの湧き水が街路を縦横に走る水路網、内湖である乙女ヶ池、そして琵琶湖本体が一体となった水辺景観は2015年に「重要文化的景観」に選定され、日本遺産「琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産-」の構成文化財にも登録されている。古くから上水道が整備され、生活のすべてが水とともに営まれてきたこの地は、単なる景勝地ではなく「水に抱擁される場所」として人々の記憶に刻まれている。
キュンチョメは初めて大溝を訪れた際、「町全体に張り巡らされた溝がすべて水路だとわかって、ここは水に抱擁される場所だと思った」と語る。さらに山から流れてきた水が最終的に琵琶湖へ集まる様子を見て、「いろんなところからやってきたものが最終的にここに集まるように感じた」と記した。この感覚が展覧会タイトルの着想源となった。琵琶湖は約400万年前に形成された古代湖であり、地球規模の地質変動を生き抜き、数百万種の生物を育んできた。キュンチョメはこうした悠久の時間を「100万年の子守唄」に喩え、水が動物・植物・人間あらゆる生命に向かって歌い続ける子守唄として位置づけた。
会場は旧福井盛弘堂(第一会場・つながりの家)、中田家住宅旧米蔵(第二会場・治癒の家)、林家住宅旧米蔵(第三会場・祈りの家)の3軒。いずれも現在は使用されていない歴史的建造物で、段差や薄暗い室内が日常の生活の気配を残している。鑑賞者はまず第一会場で受付を行い、徒歩5分圏内の会場を巡る。散歩マップが配布され、展覧会終了後に琵琶湖や乙女ヶ池への散策を促す設計だ。アクセスは京都駅からJR湖西線で近江高島駅まで約40分、駅から徒歩10分。入場無料で、冷え込み対策と防寒着の持参が推奨される。
キュンチョメの着想とアーティストステートメントの核心 展覧会は滋賀県立美術館の新プロジェクト「ASK(Art Spot in Kohoku)」の第1弾として位置づけられる。令和7年度から3年間、高島市・米原市・長浜市を順に巡る地域密着型現代美術シリーズであり、アートを通じて観る者の心に「問いかけ(ask)」を行うことを目的とする。担当学芸員の真山陽理子氏は、美術館を飛び出し地域の生活空間で展開する試みを強調した。
キュンチョメのステートメントは次の通りである。「私たちを愛してくれるものは、私たちと同じ姿をしているとは限らない。最近、そんなことに気がつきました。琵琶湖の西側にある、水に囲まれた静かで小さな町。この町を歩いていると、水が歌う子守唄が聞こえてくるような気がしました。ここに流れ着く水そのものが、あらゆる生命に向けて子守唄を歌っているのです。その声は、動物たちにも、植物にも、そして私たち人間にも向けられています。自分と同じ形をしていないものから愛を感じること。そして、自分と同じ形をしていないものを愛すること。それは、幸せのためにとても大切なことなのではないかと思います。今回の展示では、三つの民家を使って、そんな愛のかたちや幸せを見つけられる場所を生み出したいと思っています。ぜひ、水の中を散歩するような気持ちで展示を、そしてこの場所を巡ってみてください。あなたのもとに、百万年の子守唄がいつまでも降りそそぎますように。」
この言葉は、単なる環境アートではなく、人間中心主義を超えた関係性の再構築を志向するキュンチョメの哲学そのものを体現している。

キュンチョメというアートユニットの軌跡と創作哲学
東日本大震災を契機とした活動開始と初期作品 キュンチョメは2011年にホンマエリとナブチにより結成されたアーティストユニットである。日本と東南アジアを拠点に活動し、東日本大震災の大津波と原子力事故を直接のきっかけとして制作を始めた。初期作品群は津波被災地や放射能汚染地域での儀式的な行為を記録した映像インスタレーションが多く、「Like howling to the farther world」(2012)や「anywhere but here」(2013)では、死者や目に見えない存在との対話が試みられた。
制作の場は海中や汚染地など人間の生存が困難な環境に及ぶ。人間が自然を支配しようとした歴史の不可能性を問い、代わりに循環と共生に基づく関係性を模索する姿勢は一貫している。詩的でユーモラスな表現を特徴とし、鑑賞者に想像力の跳躍と内省を促す。
国内外での主要展覧会と岡本太郎現代芸術賞受賞 2014年には第17回岡本太郎現代芸術賞を受賞し、以降の評価が確立した。以降の主な個展に「Ain’t got time to die #1」(2015、ベルリン)、「Hi! in the darkness」(2016、東京)、「Blue is the Color of the Soul」(2023、黒部市美術館)、「All Living Things Are Breathing Now」(2025、フィリピン・ヴァルガス美術館およびアイルランド)がある。グループ展では「あいちトリエンナーレ2019」「六本木クロッシング2022:往来オーライ!」(森美術館)「現在地:未来の地図を描くために[1]」(金沢21世紀美術館)など国際的に高い評価を得ている。
近年はハワイやフィリピンでの長期滞在経験を活かし、現地住民との協働作品が増加。2024年の「The Room to Find Your Breath」(東京)では呼吸とウェルビーイングをテーマに、参加型パフォーマンスを展開した。これらの軌跡は、今回の高島展で「新しい愛のかたち」を地域の水文化と結びつける布石となっている。
人間中心主義を超えた「新しい愛」への一貫した探求 キュンチョメの全作品を通じて貫かれるのは、脱人間中心主義とウェルビーイングの追求である。海や動植物、死者、目に見えない存在との関係を儀式的に再構築し、「正しさの呪い」から解放される道を模索する。東南アジアでの活動では、植民地主義の残滓や環境危機を扱いつつ、ユーモアで緊張を解く手法が特徴的だ。本展はこうした哲学が琵琶湖という「生命のゆりかご」と出会った結晶と言える。

新作「あいまいな地球に花束を」の詳細と制作秘話
世界中の人々から集めた地図の収集方法と参加型アプローチ 本展の目玉新作《あいまいな地球に花束を》(2025)は、文字通り「世界中の人が描いたあいまいな世界地図」を収集し、地球儀状のガラス花瓶に転写した立体作品である。作者自身が「世界地図が全く描けない」ことを長年隠してきた経験から出発した。ホンマエリとナブチは各国・各地域で生まれ育った人々に直接依頼し、地図を描いてもらった。モルディブ出身者の地図では自国が世界の中心で他がふわっと消え、フィリピン出身者のものは数多くの島々が細かく描かれ、ガーナ出身者のものはアフリカ大陸がユーラシアと地続きのように独立して描かれるなど、多様な「主観的世界」が浮かび上がる。
収集プロセスは参加型パフォーマンスの延長線上にあり、SNSや現地ネットワークを活用。作者は「世界地図を描くという素朴な行為が自分自身の無自覚や暴力性を露わにする」と指摘し、政治的境界や植民地史の影を自覚的に扱っている。
具体的な地図例と作者自身のエピソード 作者自身が描いた地図は「オーストラリアを忘れ、アフリカが頓珍漢、ヨーロッパがぐにゃぐにゃに溶けたスライムのような形」だったという。子供時代から「正しくなければいけない」「間違いは人を傷つける」と刷り込まれた経験が、作品の原動力となった。集めた地図を丸く海の色をしたガラスに刻み、一輪の花を挿すことで「祝福」する。展示は旧福井盛弘堂の台所空間に配置され、外光が注ぐ薄暗い日常の場で「いくつもの世界」が並ぶ。
花瓶作品の技法と古民家台所での展示効果 技法はガラス成形と地図の転写を組み合わせ、青い球体が琵琶湖の水面を思わせる。複数並べると「曖昧な宇宙」が生まれ、外光と影の移ろいが作品を生き物のように変容させる。台所の流し台や古い家具との対比が、水の街の生活と地球規模の曖昧さを重ねる効果を生んでいる。
曖昧さを祝福するコンセプトの深層 作品タイトルに込められた「曖昧さを祝福する」という思想は、現代社会の二項対立(正/誤、善/悪)を解体する試みである。作者はnoteで「自分の曖昧さも、誰かの曖昧さも全部祝福したい」「曖昧さはきっと幸せのためのヒントになるはずです。そしてそれは平和への第一歩となるかもしれません」と記した。この視点は、SNS時代の分断やポスト真実の時代に、共感と平和の基盤を提供する。

古民家3会場で展開される他の作品群と全体体験
各会場の役割と新作・既存作の配置 第一会場「つながりの家」では《あいまいな地球に花束を》を中心に展示。第二会場「治癒の家」では外壁に《あなたの傷が癒えますように》(2025、写真)が施され、建築自体が癒しの場となる。第三会場「祈りの家」では《Ghost in the Ocean》(2025、映像)が琵琶湖の水と呼応する。
既存作として《海の中に祈りを溶かす》(2022-2023、映像)《金魚と海を渡る》(2022、映像)《ライフ・イズ・ビューティフル》(2024、写真)が出品され、水と祈り、自然と人間のつながりを多層的に描く。計8作品(平面2、立体3、映像3)が3会場に分散配置され、街歩きとの連動で一つの大きなインスタレーションを形成する。
映像・写真作品が描く水と祈りのテーマ 《海の中に祈りを溶かす》は海中で祈りを溶かす行為を記録し、《金魚と海を渡る》は金魚を海に放つ儀式を描く。これらが琵琶湖の文脈で再解釈され、水が「祈り」を運ぶメタファーとなる。《あなたの傷が癒えますように》は写真で傷を癒すイメージを外壁に投影し、街全体を治癒の場に変える。
街歩きとの連動がもたらす身体的・精神的没入感 散歩マップには作者による手描きイラストとメッセージが満載で、「琵琶湖!(私は萩の浜が好き)」「水路の水を見てみて!」と誘う。鑑賞後、実際に水辺を歩くことで作品の「子守唄」が現実の風景に溶け込む。冷え込む室内から外の陽光へ移る身体的体験が、ウェルビーイングの身体チューニングとなる。

地域アートプロジェクト「ASK」の意義と社会への波及
滋賀県立美術館の新たな試みと3年計画 ASKは美術館を飛び出し、地域の生活空間でアートを展開する実験的プロジェクトである。高島市を皮切りに米原市、長浜市を巡る3年計画は、県内でもアクセスが難しい湖北地域の活性化を狙う。地元企業・団体との協働(大溝の水辺景観まちづくり協議会など)が特徴で、スタッフに地域住民が参加している。
高島市とのコラボレーションの特徴とワークショップ 関連イベントとして「花になる」ワークショップ(花のお面作り)、「愛のための刺繍 ~犬をふわふわにする会~」(愛犬写真に刺繍)、学芸員まちあるきツアー、アーティストトークが予定されている。これらは作品鑑賞を「体験」へと拡張し、参加者の主体性を引き出す。
類似プロジェクトとの比較(国内外3事例) 1. 瀬戸内国際芸術祭:島の生活空間を会場とするが、観光志向が強い点でASKはより地域住民との日常的協働に重きを置く。 2. あいちトリエンナーレ2019(キュンチョメ参加):社会問題を正面から扱うが、ASKは水文化という地域固有の資源を主役に据える。 3. 欧州のWater Artプロジェクト(例:オラファー・エリアソン):環境テーマは共通だが、ASKは日本的な「子守唄」の詩情と癒しを加味している。
これらの比較から、ASKは「問いかけ」を通じた持続可能な地域アートモデルの先駆けとなり得る。


中長期的な展望と複数のシナリオ
1. 展覧会の核心テーマ – 琵琶湖の400万年史と水の循環 – 脱人間中心主義の「新しい愛」 – 曖昧さの祝福による平和への第一歩
2. 作家の創作哲学の連続性 – 東日本大震災からの一貫した祈り – 国内外20以上の主要展覧会実績 – 参加型地図収集の新展開
3. 新作「あいまいな地球に花束を」の意義 – 世界各国出身者の主観的地図30種以上 – ガラス転写技法による視覚的宇宙創出 – 台所空間での日常との融合
4. 会場配置と体験設計 – 3古民家の役割分担 – 散歩マップによる身体チューニング – 水路・琵琶湖との連動
5. ASKプロジェクトの位置づけ – 滋賀県立美術館の地域拡張モデル – 地元協働の持続可能性 – 今後米原・長浜への波及
6. 社会的影響の短期効果 – 無料開催による幅広い来場者層 – ワークショップを通じた参加型癒し – 観光資源としての高島市PR
7. 曖昧さ受容の心理的効果 – 二項対立からの解放 – 共感力向上 – ウェルビーイング実践
8. 環境テーマとの連動 – 琵琶湖保全意識の高まり – 水文化遺産の再評価 – 気候変動時代のメタファー
9. アートと地域の新関係 – 美術館外での日常空間活用 – 住民参加型運営モデル – 文化遺産と現代美術の融合
10. 国際比較での独自性 – 日本的な「子守唄」の詩情 – 東南アジア経験の反映 – ユーモアと祈りのバランス
11. 潜在的なゲームチェンジャー – 参加型地図収集のグローバル展開 – AI生成地図との対比可能性 – 若手アーティストへの影響
12. 中長期的な文化的遺産化 – ASKシリーズの継続性 – 高島市の文化ブランド化 – 後続展覧会への波及
13. 教育・啓発面の価値 – 学校プログラムへの拡張 – 曖昧さ教育のモデルケース – 多文化共生のツール
14. 経済・観光への寄与 – 近江高島駅周辺活性化 – グッズ販売と地元連携 – 持続可能な観光モデル
15. 未来への示唆 – 分断社会での癒し機能 – 環境危機時代の希望 – 100万年後の視点提供
今後の注目点と予想される変化 楽観シナリオ:ASKプロジェクトが全国に波及し、地域密着型アートが標準化。曖昧さ教育が学校カリキュラムに取り入れられ、共感社会が進展。 中立シナリオ:高島市限定の成功に留まりつつ、毎年恒例イベント化。来場者数は安定し地域経済に寄与。 悲観シナリオ:気候変動による琵琶湖水位変動で会場利用が制限され、プロジェクト縮小。 破壊的変革シナリオ:AIと協働した「グローバル曖昧地図」プラットフォームが生まれ、キュンチョメ作品がメタバース展覧会に拡張。世界的な平和運動の象徴となる可能性も。この展覧会は、単なる鑑賞を超え、水の街で「自分と同じ形をしていないもの」を愛する体験を提供する。琵琶湖の悠久の歌が、現代に新たな響きをもたらす契機となるだろう。
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